水中考古学とエルトゥールル号遺物の保存処理

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少し前ですが、2016年2月の読売新聞に、東海大学海洋学部の学生が和歌山県串本町で1890年に同町大島沖で沈没したオスマン帝国海軍海軍エルトゥールル号の遺物の保存処理に携わるという記事がありました。エルトゥールル号プロジェクトは、パブリシティや地域へのアウトリーチをとても重視したプロジェクトで、地元串本町、和歌山県内の観光系のプログラムを持つ大学、さらに小中高校との交流がこれまでもメディアにたびたび取り上げられてきました。国外研究者による国内の遺跡での学術調査で、コミュニティアーケオロージを実践した貴重な事例だとも言えます。一方で、考古学を学ぶ大学生が同プロジェクトに参加したのは、2007年のプロジェクト開始以来、今回の東海大学の水中考古学を学ぶ学生が初めてのことだと思われます。10年近く継続して行われているエルトゥールル号プロジェクトは、これまで国内の考古学機関からは、それ程にはサポートを受けたことがありません。これには色々な要因がありますが、やはり沈没船遺跡、その年代が19世紀後半ということも、水中遺跡としての認知が進まない理由の一つとも考えられます。水中遺跡の代表的な例に沈没船が含まれますが、日本の水中考古学史上では、むしろ湖底遺跡や海底の遺物の散布地などが、水中遺跡調査の事例として取り上げられます。一方で、その学史上では1974年から調査が開始された、箱館戦争で沈んだ旧幕府軍艦開陽丸の水中発掘調査が欠くことができません。19世紀後半の沈没船の数例の調査の一つとしては、他にいろは丸があげられます。日本・トルコ外交史上重要な意味を持つエルトゥールル号、発掘調査、保存処理、活用というプロセスがプロジェクト開始以来着実に進行しています。調査団の船舶考古学研究所の(INA)紀要(英文)では、調査の誌上報告がされています。特に金属・木製品からなる約8,130点もの遺物の保存処理は、3万点以上の遺物が引き揚げられた開陽丸以来の大規模な海揚がり遺物の保存処理作業となります。開陽丸遺物の保存処理では、当時の様々な試行錯誤がその課題とともに報告されていますが、水中考古学発調査によって引き揚げられた遺物の保存処理に実績のある船舶考古学研究所のエルトゥールル号プロジェクトで現在用いられている保存処理作業は、遺物の調査発掘から公開・活用までが求められる日本の水中考古学にとっても得られるところが多いのではないでしょうか。

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